平安文化が開花した第66代一条天皇の時代が終わり、第67代三条天皇が即位しました。
ここでは三条天皇と藤原道長の、対立から退位までの経緯をご紹介します。
三条天皇即位と藤原道長
先帝の一条天皇は賢帝と呼ばれ、大きな争いもなく王朝文学が開花し、藤原家との関係もなんとか良好に保たれた時代でした。
そこには、一条天皇の母の藤原詮子と弟である藤原道長との関係が良好だったことが大きく起因しています。
なので一条天皇は、藤原道長と二人三脚で政治を行ってきましたが、次の三条天皇は道長を遠ざけて天皇親政を目指しました。
三条天皇の母親の藤原超子も道長の姉でしたが、早くに亡くなっており、天皇と道長を取り持つ存在がいなかったことも原因の一つとされています。
そして藤原道長は、娘の彰子の子である敦成親王を早く即位させたいと考えており、三条天皇をただの繋ぎ役としか思っていなかったとされています。
三条天皇と藤原道長との冷戦状態が続く中、三条天皇の皇后問題が発生しました。
三条天皇の一帝二后問題
三条天皇には即位前から、藤原けん子(藤原道長の娘)と藤原せい子(藤原済時の娘)という二人の女性がいました。
当時、藤原済時はすでに亡くなっていたので、権力を持つ道長の娘である藤原けん子が三条天皇の皇后となりました。
しかし、せい子にはすでに三条天皇の子供がたくさん生まれていたことから、三条天皇はせい子をも皇后にしたのです。
こうして、一条天皇に続きまたもや異例の、一人の天皇に正妻二人という「一帝二后」状況になってしまいました。
そしてここで、藤原道長の嫌がらせが始まります。
皇居に入ることを「参内」といい、皇后の初の参内は宮中にとって大事な行事で、皇后の初めての参内は、人が集まり盛大に行われるのが通例になっていました。
藤原道長は、娘のけん子の初参内の日を、せい子の初参内と同じ日にぶつけたのです。
そして道長の無言の圧力で、けん子の参内は盛大に行われましたが、せい子の方には全く人が集まらなかったと伝えられています。
三条天皇の眼病
この参内事件だけ見ても三条天皇と道長の関係はかなり険悪な状態だったことが伺われますが、その翌年けん子に子供が生まれ、それが女児だったことで、道長は本格的に三条天皇を退位させようと考えます。
道長は、三条天皇を退位させ、敦成親王を即位させて外祖父として自分の権力を固めることを望んだのです。
そんな時、三条天皇が眼病を患ってしまいました。
薬も加持祈祷も効果がなく、三条天皇は各地の神社へ高官を派遣して、神に祈願することにしました。
しかし神社へ向かうはずだった高官たちが、病気や方角が悪いなどといい、ことごとく都合が悪くなるのです。
これが7回も続いたということは、やはり道長の圧力ではないかと考えざるを得ません。
そして三条天皇の内裏が二度も火災に見舞われるに至って、道長はタイミングを見はからったように、三条天皇に譲位を迫るのです。
証拠はありませんが、この火災も道長が関わっていたのではないかという説が有力視されています。
そしてついに心身ともに弱ってしまった三条天皇は、第一皇子である敦明親王を皇太子にすることを条件に、道長の孫にあたる敦成親王に譲位するのです。