第41代持統天皇は天智天皇の第2皇女で、天武天皇の皇后となり、天武天皇没後、政務を執った女性天皇です。
その持統天皇と、二人の天皇に愛された女性・額田王についてご紹介します。
持統天皇の実績
持統天皇は、夫である天武天皇の意思を忠実に受け継いで、新しい日本を作り上げた偉大な女性天皇です。
天武天皇は壬申の乱の勝利によって天皇の座に即位し、次々と政治改革を行って天皇を中心とする中央集権国家を目指しました。
しかし、様々な政策を展開しそれが大事業ばかりだったために、天武天皇崩御までにほとんどの事業が完了しませんでした。
この政策は皇后である持統天皇がしっかりと引き継いで、持続させました。
言い換えれば、天武天皇の偉業は一人で実現できるものではなく、妻である持統天皇がいて初めて実現できたということです。
また、持統天皇の歌は、百人一首や万葉集に載っているところを見ると、優れた政治家であるとともに文化人でもあったことがうかがえます。
持統天皇の波乱の一生
持統天皇の夫である天武天皇や、その前の天智天皇の時代を通じて、後継者争いで親族同士が争ってきました。
「父が母方の祖父を自害に追い込む」「母は悲嘆の末に病死」「13歳の時に叔父に嫁ぐ(父の弟であるのちの天武天皇)」「父と夫の対立」「夫と持統天皇は反乱を起こし(壬申の乱)、異母弟を滅ぼす」
ざっと見ただけでも、これだけの争いの中を生きてきたのです。
特に、夫の天武天皇即位の際の壬申の乱は、当事者といっても過言ではありません。
天武天皇が存命中に、後継者争いが起こらないように望んだにも関わらず、持統天皇は息子を即位させるために、姉の子を謀反の計画をでっちあげて始末してしまうのです。
その後、息子の死や孫の死など、持統天皇の生涯は波乱万丈だったと考えられます。
額田王とは
額田王は、天智天皇と天武天皇に愛されたとされる、日本古代史を彩る女性です。
美しい上に、ずば抜けた歌の才能を持っており、静かな愛の歌から情熱的な歌まで、数だけではなく全てが格調高い作品だといわれています。
出生については諸説ありますが、皇族ではありますが、少し離れた王族という説が有力です。
初めは侍女として宮仕えをしていましたが、二十歳前に大海人皇子と結婚し十市皇女を産みます。
夫である大海人皇子の兄の中大兄皇子が、額田王をそばに置くために、弟に自分の娘4人と交換しようと持ち掛けられ、断れず弟の大海人は妻である額田王を手放したといわれています。
こういったロマンスに関する逸話が数々ありますが、額田王が最も評価されるのは、たぐいまれなる歌の才能です。
47年間という長い間、つまり少女時代から晩年まで政治闘争の間に身を置きつつも優れた歌を作り続けてきた女性、それが額田王について一番正しい見方だと思われます。