天智天皇の死因とは?

大化の改新の中心人物である中大兄皇子は、即位して第38代天智天皇となりました。

中大兄皇子としても天智天皇としても、大和朝廷に貢献したこの人物の実績や謎に包まれた死因についてご紹介します。

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即位までの軌跡

第27代斉明天皇が崩御した後、中大兄皇子はすぐに即位することなく、皇太子のままで政務を行います。

しかし、斉明天皇から引き継いだ新羅遠征は最悪の結末を迎えました。

友好国の百済を救うために朝鮮半島の白村江で、新羅・唐の連合軍と戦いましたが、唐の水軍に挟撃されて壊滅、惨敗を喫してしまいます。

敗因の一つは、日本軍が豪族の寄せ集めであったため、統一した指揮系統がとれなかったためといわれています。

そして皇太子である中大兄皇子は、唐との和睦交渉に駆け回る一方、対馬・壱岐などに防人、筑紫に水城を築き、外国からの防御態勢を整えました。

一方、中大兄皇子は内政改革にも取り組み、氏姓改革にも着手し、冠位十九階を二十六階に改定し、士族を大氏・小氏・伴造の三段階に序列化しました。

そして中大兄皇子は都を近江に遷して、天智天皇として即位しました。

天智天皇と中臣鎌足、そして崩御まで

天智天皇は次の皇位を皇太子とされていた実弟の大海人皇子でなく、若く聡明な実子の大友皇子に譲りたいと考えていました。

大海人皇子は、改新政治を支えてきた経験豊かな人物であり、天智天皇の同母弟という立場を考えれば、年が若い大友皇子よりも上位にあることは歴然です。

しかし天智天皇は近江令に基づいて大友皇子を太政大臣に任命し、左右大臣までも大海人皇子以外の人物に任命しました。

これにより大海人皇子は政治の中枢から外されてしまい、天智天皇と大海人皇子の間は微妙なものとなっていくのです。

大海人皇子が天智天皇の前に槍を突き立てた、という不穏な逸話も残るほどでしたが、両者のバランスをとっていたのは中臣鎌足でした。

中臣鎌足は天智天皇、大海人皇子、大友皇子の潤滑剤となり、宮廷内の平穏を保っていたのです。

ところが、大化の改新以降天智天皇の片腕であり盟友であり、またお目付け役でもあった中臣鎌足が亡くなると、状況が変わってくるのです。

天智天皇は長年の功績に報いるため、鎌足に「藤原姓」を与えました。

これが後に隆盛を極める藤原氏の起源になります。

中臣鎌足が亡くなってから、天智天皇は失意し病気がちになり、また宮中は不穏な空気が流れるようになりました。

そして天智天皇もまた、病で倒れ崩御しました。

この死因に関して、唐が関与した暗殺説や、靴だけを残して姿を消したというような神仙化したような説もあります。

また、九州の倭国系の刺客の攻撃によるもの、という説もありますが、どれもはっきりとした証明はなされていません。

しかし日本書紀に「天皇が病に倒れる」「天皇が崩御」という記述があることから、病死と考えるのが一般的だと思われます。

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