壬申の乱に関わる弘文天皇の人物像は?祀られた神社は?

古代最大の内乱といわれる壬申の乱によって崩御した弘文天皇、弘文天皇が即位したかしていないのかなど、現代でも謎が残っています。

ここではその弘文天皇と壬申の乱についてご紹介します。

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天智天皇の崩御からの皇位継承争い

壬申の乱とは、大化改新の中心人物であった天智天皇の没後、天皇の弟の大海人皇子と、天智天皇の子の大友皇子との間で発生した皇位継承争いです。

天智天皇は病で床に伏せ、いまわの際に大海人皇子を宮に招き、皇位を譲ると告げました。

しかしそれまでの天智天皇は、実子である太政大臣を大友皇子に任命したりして、皇位を継承させるつもりだったことは明らかです。

そのような経緯があるために、大海人皇子は天智天皇の言葉を信じることができず、陰謀さえも疑いました。

そして大海人皇子は即位を辞退し、その日のうちに吉野へ向かってしまいました。

そして天智天皇が崩御した後、大友皇子の政治が始まりました。

当時大友皇子は即位していたともしていないとも言われていますが、実質的には政治の実権を握っていたことは確かです。

宮内庁の天皇系図には「第39代弘文天皇」と記載されていますが、第39代を弘文天皇ではなく、その後の天武天皇とする系図も存在します。

壬申の乱

天智天皇の崩御以後、大海人皇子は、近江の朝廷が天智天皇陵造営を隠れ蓑にして戦の準備をしているという情報を得ました。

自分の身に危険が迫っていると危機感を募らせた大海人皇子は、安全な地へ移動して戦の準備を始めます。

30人余りの従者らを引き連れて吉野を離れ、美濃へ向かう途中の豪族たちを味方につけようと準備し、500人以上の援軍を獲得しました。

一方、大海人皇子の動向を知った近江朝廷もただちに東国、吉備、筑紫などに動員をかけますが、ことごとく後手に回り徴兵に失敗してしまいます。

それでも各地の戦闘は熾烈で、朝廷軍が有利の時もありましたが、勢いに乗った大海人皇子軍は、瀬田川を挟んでの決戦に勝利し、近江京は陥落、大友皇子は25歳で自害しました。

弘文天皇伝説と神社

弘文天皇は、天智天皇崩御から壬申の乱での敗死まで、その治世はたった半年でした。

史書では壬申の乱で自害したといわれている弘文天皇ですが、身代わりを立てて逃げ延びたという説があります。

現在の千葉県君津市の白山神社に埋葬されたという説、愛知県岡崎市小針町にある小針1号墳を弘文天皇陵とする説、愛知県岡崎市西大友町にある大友皇子御陵を陵とする説など、いくつか存在します。

特に千葉県君津市には、小櫃(おびつ)という地名があり、これが弘文天皇の遺骸を収めた櫃に由来するといわれています。

またそこには、天皇家が所有していたとされる鏡や刀剣なども出土し、それが弘文天皇のものだったとされています。

そして千葉県大多喜町筒森の筒森神社(御筒大明神)には弘文天皇の死後、皇后である十市皇女がここに逃げ伸びたが、不幸にも流産して亡くなってしまったいう伝承があります。

十市皇女の産穢は山腹に埋葬され、その場所を「多羅櫃」そして奉葬した山上を「高塚の陵」しています。

そして筒森神社は現代でも「産婦の守護神」とされています。

あくまで伝承ですが、どれも想像をかき立てる興味深い話になっています。

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