天智天皇はどんな人物?水時計とは?

第38代天智天皇(中大兄皇子)は、大化の改新などで有名な人物です。

ここでは天智天皇の、文化的役割を果たした功績を中心にご紹介します。

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天智天皇と近江令

近江令とは、天智天皇が中臣鎌足とともに、法律・制度が完備した中央集権国家を建設することを目的に施行した日本初の令です。

天智天皇は、唐のような法治国家を目標として、そのためには国の基本法典を整備する必要があったと考えたのです。

天智天皇は即位前の中大兄皇子時代から近江令の編纂に着手し、即位の年に近江令二十二巻を完成させたといわれていますが、この近江令が存在しなかったという説も存在します。

それは、日本書紀に近江令に関するはっきりとした記載がないことや、その後に制定された「飛鳥浄御原律令」も二十二巻で、近江令と一致することなどがあげられます。

なので「飛鳥浄御原律令」が日本初の令で、近江令は存在しなかったという説や、未完成の近江令に新たに編纂がほどこされて浄御原律令として施行されたのではないかという説もあります。

ともあれ通説として、近江令が日本初の令とされていることは確かです。

日本で初めて時を知らせた水時計

日本書紀に、660年5月「皇太子が初めて漏剋を造り人々に時刻を知らせた。」と記載されています。

この皇太子とは中大兄皇子、後の天智天皇のことで、漏剋とは水時計の事を指し、漏刻ともいいます。

水時計は、紀元前1550年頃にすでにエジプトで使われていました。

すり鉢型の瓶に、日暮れと同時に決まった高さまで水を入れて置きます。

その瓶の側面下部の小さな穴から少しずつ水が漏れていき、瓶の内側の目盛りを計ることで時刻を知ったとされています。

中国でも水時計の歴史は古く、紀元前1046~771年頃に水時計を管理する役人の記録が残っています。

日本の水時計は、後の天智天皇である中大兄皇子が初めて漏刻を作り、西暦671年に、これも日本で初めて民衆に鐘や太鼓で時を知らせました。

この日が今の暦で6月10日にあたり、大正時代にこの日を時の記念日に制定しました。

滋賀県大津市にある近江神宮では天智天皇を、初めての時計を作らせたことにちなんで、時計の始祖として祀っています。

境内には、和時計を中心として漏刻台や、古今東西の時計3000点以上をを所蔵する、近江神宮時計博物館があります。

そして6月10日の時の記念日には漏刻祭が催され、時計商いの関係者が集まって参拝する祭になっています。

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