皇極天皇とは、先帝の舒明天皇の没後即位した女帝です。
舒明天皇の皇后でもあった皇極天皇の時代に起きた政変と、蘇我入鹿についてご紹介します。
皇極天皇即位の経緯と時代背景
皇極天皇の即位は、舒明天皇の没後、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子の成長を待つ蘇我蝦夷らが、山背大兄王に皇位を渡さないための中継ぎとして担ぎ出したとの説があります。
この時期、蘇我氏の朝廷での専横は激しさを増し、人々は不満を募らせました。
墓の造営に勝手に領民を使役するなどとめどを知らず、さらに蘇我蝦夷は独断で蘇我入鹿を大臣に任命しました。
そしてついに皇位継承のライバルである山背大兄王を襲撃し、山背大兄王の宮を軍勢で囲み火を放ちました。
山背大兄王は一旦は逃げますが、反撃を拒んで一族の者たちと自害しました。
そして乙巳の変(大化の改新)へ
こうした過剰なまでの蘇我氏の権力増大に、皇極天皇と、亡き舒明天皇の子である中大兄皇子でした。
山背大兄王亡きあと、古人大兄皇子即位の障害になるのは中大兄皇子だったからです。
その中大兄皇子は、法興寺で行われた蹴鞠の催しの際に、やはり蘇我氏の専横を憎む中臣鎌足と出会い意気投合します。
そして二人は打倒蘇我氏の計画を練り始め、宮中の三韓進調の儀の際についに中大兄皇子が、列席していた蘇我入鹿に斬りつけました。
蘇我入鹿は皇極天皇に助けを求めましたが、皇極天皇は宮殿に姿を消したといわれています。
そして蘇我入鹿は息を引き取り、翌日蘇我蝦夷も自害し、こうして蘇我本宗家は滅亡しました、これが乙巳の変です。
昔の教科書にはこの出来事を「大化の改新」と記載されていましたが、
正確にはこの事件を「乙巳の変」といい、それ以降の数年間の一連の政治改革を「大化の改新」といいます。
大化の改新後の「改新の詔」
大化の改新によって、新たな施政方針が発せられました。
天皇中心の集権国家を目指し、後の律令制へつながるもので、大きく4つの主文からから成っています。
第一条「公地公民制」これまで王族や豪族が支配していた土地を、これからは天皇が支配する、つまり所有を禁止する。
第二条「国郡制度」全国を国に国をいくつか郡に分ける。朝廷からは国司を派遣し、管理する。
第三条「班田収授法」6年に一度戸籍を作り、その戸籍によって土地を公民に分け与える。そして亡くなったら国に返す。
第四条「租調庸の税制」税制に関する決め事。租は米、庸は労役、調は布類のことを指す。
しかし、この「改新の詔」がきちんと達成されるまでは50年以上の月日が必要になりました。
後の大宝律令の制定でようやく、目標とした政治の制度がほぼ完成を見ることになったのです。