乙巳の変(大化の改新)の後、第35代皇極天皇の後継ぎ問題が勃発します。
そこで即位した孝徳天皇と、乙巳の変の主役である中臣鎌足や中大兄皇子の関りについてご紹介します。
三皇子の皇位譲り合い
乙巳の変の後、突然皇極天皇は中大兄皇子への譲位を宣言しましたが、中大兄皇子はそれを断りました。
そこで三人の皇子の譲り合いが始まってしまうのです。
日本書紀によると、中大兄皇子は、中臣鎌足から兄である古人大兄皇子を差し置いて即位するのはふさわしくないと助言を受けて、皇極天皇の弟にあたる叔父の軽皇子を推薦しました。
ところが軽皇子もその申し出を断り、舒明天皇の子で年長であることを理由に、古人大兄皇子を推しました。
しかし古人大兄皇子も即位を拒み、飛鳥寺で剃髪し吉野で出家してしまいました。
そのため軽皇子は辞退することができなくなり、孝徳天皇として即位したとされています。
孝徳天皇、乙巳の変黒幕説
乙巳の変は中臣鎌足と中大兄皇子が中心となって蘇我入鹿を討ったことになっていますが、実はその後に即位した孝徳天皇が黒幕だったのではないかという興味深い説があります。
その根拠としては、乙巳の変に参加した人物のほとんどが孝徳天皇と縁戚関係だったことや、直接襲撃軍に加わった多くの人物が孝徳天皇と何らかの繋がりがあるということです。
他方、中大兄皇子はこうした人間関係とは縁がなく、孝徳天皇の後押しなしでこれだけの人材を集めることができたかどうか、疑問が残ります。
また、乙巳の変の後すぐに皇極天皇が譲位を表明したことや、結局即位したのが孝徳天皇だったことなども黒幕説の根拠になっています。
孝徳天皇と中大兄皇子の対立
孝徳天皇は即位後、阿部内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、中大兄皇子を皇太子とし、政治改革を実行しました。
まず、都を飛鳥から難波に遷し、東国に国司を派遣して鍾匱の制を設けました。
鍾匱の制とは、人民が役人の悪政などを中央に訴えることができる制度です。
そして大化の改新の重要事項である、公地公民制、地方区画整備、戸籍の制定、租庸調など、主に税制の整備を謳う改革の方針が表明されました。
こうして孝徳天皇は政治を刷新し新しい国家体制を築こうとしましたが、次第に中大兄皇子と対立を深めるようになっていきます。
中大兄皇子はおとなしい孝徳天皇の影で政治を動かしていたのですが、孝徳天皇自身が政治を行うようになったのが面白くなかったと考えられます。
その後中大兄皇子は、右大臣・左大臣を除去して孝徳天皇を孤立させようとしたのではないかといわれていますが、確証はありません。
しかしこの後、中大兄皇子は、孝徳天皇の反対を押し切り、母の皇極上皇以下豪族たち、そして孝徳天皇の皇后である間日人皇女まで引き連れて飛鳥に帰ってしまいました。
そして孝徳天皇は失意の中654年に崩御しました。