天武天皇は新羅の王?様々な説と政治実績

第40代天武天皇は、舒明天皇と皇極天皇の子であり、中大兄皇子(天智天皇)の実の弟です。

壬申の乱で大友皇子を倒し天皇を継承した天武天皇は、様々な改革を行うと同時に、新羅との関係を密接にしました。

ここではその天武天皇について、様々な角度からご紹介します。

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天武天皇の国内政治

即位した天武天皇は、うのの讃良皇女を皇后に立てて、息子の高市皇子、大津皇子などの皇族を政治の中枢に据える、皇親政治を展開しました。

壬申の乱で近江朝廷とともに多くの豪族が没落したことと、実力によって皇位を勝ち得たということが、天皇の権威を高めたといえます。

その皇親政治を確立させたのが、八色の姓の制定です。

八色の姓(やくさのかばね)は、皇族から分かれた多治比氏などの豪族に最上位の姓を与えることによって、皇族の優位性を明確にしました。

また冠位制度の面では、冠位を四十八階に増やし、豪族の序列をより明らかにしました。

さらに天武天皇は改革の集大成として、「飛鳥浄御原令」を制定し、律令国家体制の確立に尽力しました。

そしてこの時代に、「日本」や「天皇」という言葉が初めて使用されたと考えられており、天皇の権威が飛躍的に上がりました。

天武天皇はこの権威をさらに強化するために、天照大神を祀る伊勢神宮を重視し、斎の宮を派遣しています。

天武天皇の外交

白村江の戦いでの敗戦後、唐と新羅は互いに朝鮮半島の支配をめぐっての争いが続いていました。

それぞれ日本との交流を求めていましたが、天武天皇は征服・干渉のために軍を起こすことをせず、内外に戦争がなかった時代でした。

天武天皇は遣唐使を一切行わず、新羅から新羅使が来朝するなど新羅寄りの政策がとられました。

天武天皇が急に新羅寄りになった事で、天皇には新羅人の血がはいっているのではないかという説がでましたが、これは根拠のない流言で、現在でもその説は取り上げられていません。

また日本から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣され、天武天皇の時代だけでも14回以上と伝えられています。

これは、より強大な唐に対して、新羅と協力して対抗しようという動きだと考えられます。

天武天皇の文化政策

天武天皇は、日本古来の伝承や文芸を掘り起こすことに尽力しました。

また、天皇に連なる王権神話の体系化も進められ、古事記や日本書紀の編纂が命じられたのもこの時代です。

天武天皇は民間習俗を積極的に取り入れ、新嘗祭や大嘗祭を設け、それを国家的祭祀としました。

その他神道の祭祀も含め、現代に伝統として伝えられている主要な宮廷儀式のほとんどが、天武天皇によって始められたか大成されたといわれています。

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