聖帝と言われた仁徳天皇、詠んだ歌に込められた思いとは

第16代仁徳天皇は、八幡様の祭神として知られている第15代応神天皇の第4皇子です。

ここでは後の世に語り継がれるほどの、仁徳天皇の善政についてご紹介します。

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皇位継承の際の逸話

先代の応神天皇は生前、第四子である仁徳天皇ではなく弟にあたる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を皇位につけようと思っていました。

しかし応神天皇が崩御した後、菟道稚郎は弟の自分が即位することはできないと、即位を辞退しました。

兄である仁徳天皇もまた、先帝の遺志に背くことはできないと辞退し、皇位を譲り合う形になってしまいました。

そしてさらに皇位を狙うもう一人の兄である大山守という人物が、弟である菟道稚郎の命を狙うという事件が起こりました。

仁徳天皇と菟道稚郎は力を合わせて大山守を排除しましたが、自分がいると国が混乱すると憂いた菟道稚郎は自害してしまうのです。

そこに駆け付けた仁徳天皇に、菟道稚郎は「先帝の元に参りましたら、兄(仁徳天皇)が「聖」で皇位を辞退したことを伝えましょう」と言って息を引き取りました。

こうして「聖」と言われる仁徳天皇の時代が始まりました。

仁徳天皇による善政

高殿に上って国を見渡したところ、農家の家々のかまどの煙が上がっていないことから、天皇は民衆が困窮していることを察知しました。

そこで三年間民衆の税を免除し、自分の宮殿は荒廃するに任せて質素倹約に努めました。

三年後、民衆の家々のかまどには煙が戻り暮らしも豊かになり、仁徳天皇の仁政に心から感謝しました。

そのため各地から、荒廃した宮殿の修理をしたいという申し出が殺到し、民衆によって宮殿はきれいに修理されたと伝えられています。

また河川が氾濫を繰り返していたため、水害から民衆を守り、生産力を高めるために治水工事まで行いました。

河内平野では、灌漑用水の開発のおかげで飛躍的に農地が拡大し、民衆は豊かになり、水害からも逃れることもできるようになったのです。

また、治水施設だけではなく、大道や橋なども築いて都市機能の発展にも力を入れました。

仁徳天皇に感謝した民衆によって、まだ天皇が元気なうちに、面積が世界一という仁徳天皇陵が作られました。

聖帝の歌

高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑ひにけり

この歌は仁徳天皇が、暮らしが豊かになった民衆の家を見て詠んだ歌だといわれています。

三年間の無税の時代が終わっても、民の富は自分の富だと主張してもう三年間税を受け取らなかったといわれる仁徳天皇の心が、この歌に詠まれていると言っても過言ではありません。

この歌は「新古今集」に収められているので、時代考証を考慮すると、仁徳天皇が詠んだ歌ではなく、後世の人間が慈悲深い仁徳天皇を偲んで詠んだものとも言われています。

いずれにしても、このような歌が存在するほどの仁徳天皇の善政ぶりが後世にも語り継がれていることや、仁徳天皇陵が世界一の面積だったということは間違いなかったと考えられます。

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