第61代朱雀天皇はわずか3歳で立太子し、8歳で即位しました。
ここでは朱雀天皇の時代と、朱雀天皇陵についての逸話をご紹介します。
天変地異の時代
朱雀天皇の時代は、富士山の噴火や度重なる地震、そして平将門と藤原純友の乱など、動乱の時代でした。
この時代が平和でなかったのは天変地異だけが原因ではなく、摂政や関白が実権を握っていたということも、良い時代とされていない理由です。
朱雀天皇は、先帝である醍醐天皇の第十一皇子として産まれましたが、同じ年に同じく皇子であった保明親王が亡くなりました。
これは讒言によって左遷され、無念のまま大宰府に飛ばされた菅原道真の怨霊だと噂されていたことで、朱雀天皇はしばらく幾重にも張られた几帳の中で育てられていたという話が残っています。
そのような育てられ方をした朱雀天皇は、病弱ではありましたが決してわがままでなく、上品で柔和な性格だったと伝えられています。
病気がちだったためか、朱雀天皇は24歳の若さで退位しました。
そして有名な平将門の乱や藤原純友の乱は、この朱雀天皇の時代に起こりました。
これらの乱は、中央の政治が地方に及ばなくなり、律令制が崩壊していったということの表れだと見ることができます。
朱雀天皇陵と醍醐寺
朱雀天皇陵は、京都市伏見区醍醐寺の近くの醍醐陵にあり、ご遺骨は父である醍醐天皇陵の傍らに納められています。
この醍醐寺から醍醐天皇は諡号(おくりな)をとり、上醍醐の観音様に祈願して、後の朱雀天皇と村上天皇を授かったと伝えられています。
朱雀天皇は、亡くなった父親である醍醐天皇の菩提を弔うために、醍醐寺に五重塔の建立を発案しました。
着工してから約20年で完成、次の天皇である村上天皇の時代に完成の落慶法要が行われました。
千年の都といわれる京都ですが、建物に関しては数々の戦乱でほとんどが消失してしまっています。
その中でこの醍醐寺の五重塔は、京都で最も古い、平安時代の建物です。
高さ38mという、五重塔としてはそれほど高いものではありませんが、その一層内部の壁に描かれた曼荼羅や真言八祖は日本の密教絵画の源流といわれる素晴らしいものです。
醍醐寺の他の建物は、応仁の乱その他度重なる戦乱で、そのほとんどが焼失してしまいますが、戦国時代の終わりに豊臣秀吉が再建し、有名な醍醐の花見を開催しました。
桜がそこにあるから花見をしたのではなく、そこで花見の宴を催したいからそこに桜を植えた、という天下人である秀吉らしい大胆な発想です。