第87代四条天皇は時代の流れの中で即位し、不慮の事故で亡くなった天皇です。
ここではその四条天皇と、その頃の幕府と朝廷についてご紹介します。
承久の乱の影響と天皇即位の経緯
鎌倉幕府ができたころに即位していた第81代安徳天皇は、平氏の最後と共に壇ノ浦で入水し、第82代後鳥羽天皇が即位しました。
その後鳥羽天皇と鎌倉幕府の勢力争いが承久の乱です。
そして敗者側の後鳥羽系の天皇一族が、配流されるなどの処分を受けました。
そして幕府は、承久の乱の首謀者である後鳥羽天皇の系列の天皇即位を認めない方針を打ち立てました。
後鳥羽天皇と安徳天皇は兄弟だったので、安徳天皇の直系列の人物を天皇にする必要があったのですが、安徳天皇は6歳で亡くなったので子共はいませんでした。
もう一人の兄弟である守貞親王は、兄である安徳天皇が亡くなった後、弟の後鳥羽天皇が即位してしまったために出家してしまっていたのです。
出家してしまった人物は天皇になる資格がないので、守貞親王の10歳の子を後堀河天皇として即位させ、守貞親王を上皇にして院政を始めることになりました。
そして四条天皇は後堀河天皇の子供です。
上皇となり守貞入道改め高倉上皇は、幕府と朝廷の融和に尽力しましたが2年ほどで亡くなってしまいました。
後堀河天皇は病弱で、10歳で即位し19歳の時に生まれた四条天皇に天皇を譲位して、21歳の時に上皇となりました。
その時、四条天皇はまだ2歳でした、そして後堀河天皇はその二年後に亡くなってしまいました。
四条天皇に他に男兄弟はいなかったので、その頃の政務は母方の祖父である九条道家が行っていました。
四条天皇の崩御とその後の天皇家
四条天皇が12歳になったころ、九条道家の孫娘である16歳の九条彦子が嫁いできました。
九条道家としては、四条天皇は政治には関わらないで、遊び相手として彦子をあたえ、なおかつ天皇家と縁を結ぶ目的だったのではないかといわれています。
四条天皇は、近習や女房たちを滑って転ばそうといういたずら心で、御所の廊下に滑石を撒いたところ、四条天皇が自分で滑って転んでしまうという事件が起こりました。
廊下に石を敷いたというのは不自然なので、滑石の粉を廊下に撒いたか擦りこんだのではないかともいわれています。
滑って頭から転んでまもなく亡くなったということで、死因は脳挫傷だったのではないかといわれています。
四条天皇の突然の崩御で後鳥羽上皇系以外の血筋は絶えてしまったことで、後鳥羽上皇の呪いだったのではないかという噂があったとも伝えられています。
そしてこの事件によって朝廷や幕府は混乱し、天皇空位の状態が11日間続きました。
こうなると、後鳥羽上皇の血筋の人物しか残っていないのですが、ここで朝廷と幕府側で意見が対立します。
朝廷側は順徳天皇系の忠成王を推しましたが、幕府側は積極的に承久の乱に加わらなかった土御門天皇系を推奨し、結局幕府側の意見が採用されました。
そして第88代後嵯峨天皇の即位が決定しました。