孝昭天皇は、日本の第5代天皇です。
いわゆる欠史八代のうちの一人とされて、実在を疑問視される天皇の一人ではありますが、祀る神社や御陵は存在します。
ここでは孝昭天皇に関係する神社や陵と、邪馬台国との関わりについての興味深いお話を紹介します。
孝昭天皇の神社と古墳
孝昭天皇の陵(墓所)は、奈良県御所市にある掖上博多山上陵(わきがみの はかたのやまの えのみささぎ)です。
日本書紀では前述のように「掖上博多山上陵」、古事記では「掖上博多山上」にあると記されています。
この付近にかつての孝昭天皇の宮も存在したと言われています。
陵は鴨都波神社の近くの葛城川西側の低い丘陵です。
こんもりとした小山なので一見古墳のようですが、自然の丘陵であり古墳ではありません。
宮内庁は、陵形を山形としています。
近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭宮(孝昭天皇神社)がありますが、これは以前丘の上にあったものを、幕末の補修の際に今の場所に移したものです。
孝昭宮は小さな神社ですが、趣のある自然豊かな地に鎮座しています。
孝昭天皇イザナギ説
古代天皇に関する史料は多くありません、「古事記」「日本書紀」が数少ない文献です。
現代でも多種多様な解釈がなされていますが、その中で孝昭天皇と邪馬台国の興味深い説を一つご紹介します。
3世紀末に、中国の晋の時代に書かれた「三国志」の中に邪馬台国についての記述があります。
これは「魏志倭人伝」というもので、邪馬台国に卑弥呼という女性がいて使者を中国(魏)に派遣して友好関係を結んだとされています。
そしてその卑弥呼の人物については様々な推測がなされていますが、その中で興味深いのが、卑弥呼と天照大御神の実績がよく似ているという説です。
初代神武天皇から10代崇神天皇の即位前、つまり欠史八代の時代が、邪馬台国時代にあたると言われています。
古事記や日本書紀では、神武天皇が大和に進出したと記されている以外、欠史八代の間の記述はほとんど見当たりません。
そこで、中国では日本での欠史八代の間を邪馬台国時代と伝え、日本では神話として後世に伝わったのではないかと言われているのです。
そして時代考証や年号の矛盾によって出された結論が「イザナギと呼ばれた人物が孝昭天皇にあたる」という説です。
そしてその皇子の考安天皇がスサノオとなり、その後の天皇家へと続きます。
邪馬台国と古代天皇
邪馬台国の卑弥呼は、一人ではなかったという説が有力で、何代もの卑弥呼が存在したと言われています。
そして初代の卑弥呼がかの有名な天照大御神で高天原を治めており、女王だったと言う説があります。
少ない史料の中でのひとつの解釈ではありますが、神話の中の人物と言われる人物、が古代の天皇とリンクするというのはとても興味深い話です。
初代天皇を神武天皇とする説がある一方で、イザナギ、つまり五代天皇である孝昭天皇こそ初代天皇だったという説があるのも事実です。